第8442回

吉田勝昭先輩からのメールが印象的で転載します

高松商昭和36年卒の吉田勝昭先輩から、定期的に連絡をもらっています。高商紫雲会ホームページにも、氏のライフワーク『私の履歴書』(日本経済新聞)が検索できるページを作っています。小欄は、『旬のネタ・地域のネタ・誉めるネタ』を3種の神器として書いています。そんな折、吉田勝昭氏のメールが刺さりました。先輩の許可を得て、転載させて頂きます。

30.昭和20年(1945)の思い出

当時私は3歳だった。高松市に空襲警報が鳴り焼夷弾が夜襲い掛かる中、母親に手を引かれ懸命に逃げたのを覚えている(7月4日)。そして市外に流れる郷東川の橋の下に避難し寝た。翌日かは覚えていないが、ここから2,3キロ離れた高松市役所が避難民のために炊き出しのおにぎりを配ってくれたので、それに並んだのも覚えている。この光景ははっきりと脳裏に刻み込まれているのです。同じ年齢の友達に聞いても、恐怖感を経験していない人は終戦時を覚えていなかった。

ここ数日、NHKテレビで「戦後80年スペシャル」番組が流され、「終戦からの復興」「高度経済成長~バブル崩壊」「あの時のあの場面」などがあり、また被爆80年の広島原爆や長崎原爆の「つなぐ核廃絶の願い」などが放映された。特に印象深いのが8月15日の玉音放送が流され、皇居前でひざまずき首を垂れて嘆き悲しんでいる人々の姿でした。有名な「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び・・」詔書の玉音放送の前日録音も、入江相政氏(後の侍従長)が「私の履歴書」で、陛下は15日の午前零時をまわっても2回目の録音に固執し、果されたと証言している。その録音盤(正と副)2枚をどこに格納し、反乱軍から守ろうとしたかの決死の防衛・苦心談でもありました。(国立公文書館の詔書・原本コピーを添付します)

私・個人の思い出は、この1~2年後に進駐軍が高松にも駐屯し、ジープを乗り回していました。先輩から彼らが来たら「ギブミー、チョコレート、ハングリー、ハングリー」と言え教えられ、これをジープの彼らに言うと、チョコレートをばらまいてくれたのもなつかしい!食べるものがなく大根など野菜類ばかりを食べていたものだから、チョコレートなど甘いものは貴重品でうれしかったのです。飽食時代の子供や孫には想像もつかないことだと思います。

新聞やテレビでは、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォ―、ノーモア・ヒバクシャ」を繰り返し、世界各地で激化する紛争の即時停止を訴え、世界が核戦争に突き進むことへの強い危機感を訴求しています。食料や住居、水や電気などの不足による生活困窮よりも、核戦争による戦争の悲惨さを直接訴える方が、世代を超えて説得力がありますよね。そういう意味で小学生・中学生でも読めるマンガ「はだしのゲン」を読んでいただきたいと思います。これを読める方法は、ホームページ「はだしのゲンをひろめる会 」をご覧ください。2025/08/10

吉田勝昭

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(毎月更新しています)

高松商もどちらかと言うと『高校野球の強豪校』だと思いますが、広島・広陵高校事件は驚きました。はっきり言って勝つための練習はとても大事ですが、暴力・体罰はいけません。指導者の考え方をリセットして、「愛と誠と調和の心をベースとする」指導をお願いしたい。私も高松商入学当初は「生意気だ」と、応援団によく殴られましたが、今は昔の話しです。

逆に作新学園(栃木)高校の野球監督が、ゴロ処理の基本として素手での捕球指導をしていて選手が骨折したと言って、監督が処分されたと聞きましたが、監督が悪意を持ってやらしたのなら当然かもしれませんが、よかれと考えて取り組んだのならこれは体罰にはあたらないと思います。戦時中劇の「はだしのゲン」から、平和時の広陵劇に話しが飛んでしまいました。平和であれ!

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