第3002回

西太后と天璋院篤姫

NHKテレビで、歴史を「ヨコワリ」で、つまりその時代を共に生きた中国と日本の女性にスポットを当てて歴史を見聞する番組が放送されています。私もこの二人は、西太后がもっと先輩で生きたというずれた時代認識を持っていました。さほどに、すぐれた視線に感服しました。

西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清の咸豊帝妃で、同治帝の母。

天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫。フリー百科事典ウィキペディアから

番組でも言われていたとおり、二人は同じ年に産まれ、西太后は73歳まで生き、天璋院は47歳で無くなっています。二人とも嫁して子供を産み、それぞれが若くして亡くなり、その後、それぞれの家を国を守った偶然を持ち合わせています。

天璋院が西郷隆盛へ送った嘆願書は有名で、時代の嵐に持て遊ばれる天璋院に対して、西郷隆盛は江戸無血開城の労を執ります。日本は、考え方の違いのある両陣営が、話し合いの結果、明治維新へと進んで行ったのでした。

一方西太后は、一層内憂外患に苦しめられることになります。1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。

日本人は中国人ほど「激」ではない。何を持ってそう述べるのかと、非難が集中しそうだが、中国から学習したからに他ならない。日本は古来より中国朝鮮大陸に学んだ。「激」は日本海を東シナ海を渡って、日本へ到来する時に、潮水で血液濃度が薄まったのかも知れませんね。

尖閣諸島のいざこざを見ていると、まさに世界のだだっ子みたいで、実に滑稽です。あれだけの民、あれほどの領土を持ちながら、まだまだ足りないとする思想は、庶民のDNAの中にまでしみ込んでいるようです。

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