広瀬勉さんの法然寺納骨が無事終わる

七月に新潟在住の十河浩と名乗る人から、1本の電話を貰った。彼のいとこに当たる広瀬勉さんが、大阪堺市の府営団地の1室で孤独死したという知らせでした。広瀬勉さんは、拙宅の南の道路を挟んだ今も現存する家に、高松工芸高卒まで住まいしていて、母親サチ子の通夜の晩に、この日記を読んで知ったと駆けつけてくれたあの人。その時も驚いたが、その後母の三回忌から先は、お目にかかることがなくなっていた。
突然の訃報に驚いたが、いとこの十河さんが警察からの連絡で詳細を知り、府職を通じて、荼毘に付した骨を新潟の十河さん宅まで配送してもらったとか。過去に広瀬勉さんが大手術する際に、十河さんの妹さんが関係者として登録されていたのをたぐり、妹さんを介して十河さんのところに連絡があったらしい。今日の納骨に、妹さんの姿もありました。
独居老人の孤独死は、商売柄私の身の回りでも多発している。今では決して珍しいことでもなくなってきているが、広瀬勉さんも独り身で、いずれそうなる可能性は本人も覚悟していたと思うのだが、前日はカラオケに饗して、当日の午前中はヘルパーさんの電話に異常なく答えていたそうで、本人も予想しなかった最後になったようだ。そうだろう、自らの死期を予想できる人はいない。
私も十河夫婦について、法然寺に出かけました。満76歳と言えば、私の4つ先輩。盆礼に来た実妹が、「瓦町の南地食堂へつれてってくれた」と言っていました。過去のことでも、人間の本能に近い記憶は鮮明に覚えている。勉さんは、「おばさんに弁当を作って貰った」と記憶していた。決して料理の得意な母ではなかったが、勉さんの弁当を作り、それを「美味しかった」と言わせる母は、私の自慢の母であります。損得勘定抜きの行動が、九州女らしいところか。
11年前の通夜・葬儀告別式で、勉さんとサチ子の思い出をこのように語り合いながら、辛いながら心安まる時間を共有できた。かろうじてふるさとの法然寺に納骨されて、今日は細井俊道導師の丁寧な念仏経で、彼は心安らかに昇天したと思う。人の一生は、分からないものだ。私も、無縁仏にならないとも限らない。「情けは人のためならず」、このお盆の時期だから余計にそう思ったりする。
今月二十五日は、わが父・茂の62回目の命日にあたる。毎日仏壇に手を合わせ、写真に挨拶しているが、私が彼の地で会いたい人は母もさることながら父かもしれない。記憶も段々怪しくなってきた。父親の死去は私の10歳の年で、肺がんを患い、随分苦しそうにしていたのは今でも良く覚えています。その夏も暑くて、苦しんでいる父親を何ともしてやれず、ただ背中を気休めに摩っていた。
広瀬勉さんはもっと早く父親と死別し、顔を見たことがないと聞いていた。大阪に就職して、母親と二人暮らし。幼少期は拙宅の前の祖父母に育てられ、母親は住み込みの仕事をして、勉さんは高松工芸を卒業した。彼に当時貰った『松本清張』の文庫本が、今でも彼のサインを残して並んでいる。『砂の器』の映画に、連れて行ってくれた。清張を知ったのは、この関係で比較的早かった。
十河浩さんの両親も見合いを奨めたようだが、勉さんは母・シズゑさんと二人暮らしを長く続けたそうだ。父親と早く別れ、母親とも幼少期に別に暮らした彼にとって、シズゑさんとの二人の生活は余人を以て介入できるモノではなかったようだ。両親と勉さんの永代供養を『流れ』で取り仕切った十河浩さんは、いとこと言いながら、なかなかの人物だ。勉さんらのご冥福をお祈りし、十河浩さんに、良いことがありますように。