第29回高松冬のまつり点灯式と記念例会
来年の第30回で、髙松栗林ライオンズクラブが提唱した、高松冬のまつりが終わります。わざわざ高知から黒潮ライオンズクラブや岡山から後楽ライオンズクラブ、その他大勢の関係者を集めて冬のまつり例会が高松ロイヤルパークホテルで開催されました。
隣席の高知黒潮LCから、「どうしてやめるんな」と聞かれましたが、やはり30年は疲れました。私が34歳の若造でスタートしたのですが、今や63歳にも成りました。みんな疲れています。30回が潮時です。
そしてこちらがもっと大きな理由かも知れませんが、髙松栗林ライオンズクラブが提唱した冬のまつりは、「私たちは子ども達の目の輝きを大切にしたいと思います。(高松)中央公園に美しいイルミネーションを飾り、親と子の語らいの場所を作りたいと思います」というものでした。
しかし昨今求められのは、イルミネーションの数だけです。神戸のルミナリエが何十万個とか、どこどこが何万個とか。わがクラブが提唱したのは、「親と子の語らいの場所づくり」です。ステージの上では、絶えず誰かが唱い踊っている。それを車椅子の子らが、親につれられて楽しそうに眺めている。
ここ2~3年は、ステージに金がかかるとして、特設ステージもなくなりました。既存の小さな石のステージに、文字通り舞台を移しています。われわれが考えるしつらえと違ってきています。新しい企画で、次の高松冬のまつりが再来年から始まると思います。
私も初回から手伝いをして、最初にイルミネーションが点灯した時は、周りを気にせず泣きました。次ぎに泣くほど嬉しかったのは、1991(平成3)年の浅田善太郎会長の時に幹事を拝命していたときの出来事でした。
その年の6月に島原普賢岳が大噴火をして、大勢の犠牲者が出ましたが、その時落ち込んでいる島原第4小学校の生徒を、高松冬のまつりに連れてきたことです。浅田善太郎会長の「金は何とかする」という言質をもらい、島原ライオンズクラブに平井大資さんと乗り込みました。9月のことだったと思います。
長い話しの後に、「交通費や滞在費はすべて髙松栗林ライオンズクラブが負担します」の私の一言で、島原LCのメンバーにわれわれの覚悟が伝わり、彼らは公選により、対象小学校と生徒を選んでくれました。私は、メンバーの孫さんが通う小学校の、メンバーの子弟で良いと考えていました。
そして当日の朝、全校生徒に見送られたバスは、福岡空港まで高速道路を走り、当時の東亜国内航空で高松まで飛んで、空港から平井タクシーで会場入りして、全員が無事舞台に立つことが出来ました。その当時のJASの高松支店長は、クラブメンバーでした。
そしてこれまた驚いたことに、高松北警察のおまわりさん男女数人が、サンタの格好で食事会会場へ飛び入り参加。これも聞いていなかったことで、私までも大変驚きました。翌日は、当時のレオマワールド(丸亀市綾歌町)へ行って、子どものみならず、島原ライオンズクラブのメンバーもニコニコでした。
色々なことがあって、楽しませてくれた高松冬のまつり。終わることで、髙松栗林ライオンズクラブの次のアクティビティーを考えろと厳命されています。「青少年の健全育成」をクラブ理念としている手前、当然これだけは継承していきます。
私自身もクラブ結成十周年記念事業として始まった、「奨学親和会」の初代奨学生の1人です。高校3年間、髙松栗林ライオンズクラブから奨学金を頂きました。そのため、16歳から年に1度クラブ例会に出席していました。ライオンズクラブに、助けられた私の一生と言っても過言ではないのです。