松野サチ子鬼籍へ入る

2月12日午前7時3分急性循環不全で、母親が逝去しました。享年87歳でした。生前みなさまにかわいがられて、惜しまれながらの旅立ちです。お世話になりました大勢の方々に、衷心よりお礼を申し上げる次第でございます。
母は熊本県熊本市の出身で、24歳の時、当時ミシンの販売修理をしていた叔父さんの会社の営業マンとして熊本へ赴いていた父茂が母サチ子と知り合い、親の反対を押し切って高松の松野茂の元へ嫁いできました。今なら外国へ行くぐらいの距離感があったと思います。
私も幼少の頃、母に連れられて何度か熊本へ行きました。恐らく夫婦喧嘩か、姑と折り合いが悪く、逃げ帰ったのだと思います。それでも一週間後には、また高松へ帰っていました。高松から船で大分県別府港へ入ります。そこから豊肥線で、阿蘇山をスイッチバックで乗り越えて熊本へ入っていました。高松を夜出て、昼頃熊本へ到着していました。15時間はかかっていました。
息子の私が言うのも何ですが、両親は美男美女の相思相愛だったと思います。高松へ帰った父茂は、親父さんの麺業を手伝いはじめたと聞いています。母も高松へ来てすぐの頃は、編み物教室へ行ったり習い事のまねごとをしていたと聞いています。熊本ではタイピストをしていたのですが、それから暫くして麺づくりを手伝うようになったのでした。
麺業は家業ですから、遊びに行くことも少なかったようです。新婚時代の海水浴写真が1枚あっただけ、私と妹と親子4人での写真も遊びに行っているのは栗林公園の1回だけです。よく働いた両親でした。
昭和27年に長男の私が生まれ、年子の次男を1歳でなくしましたが、2年後に妹が誕生し、順風満帆のようでしたが、昭和37年茂が肺がんで他界しました。それから働き者の母は鬼と化し、私たち兄妹を育ててくれました。できの悪い私は、東京の私立大学へ進学し、そのあおりをくいながら妹も地元ですが短大まで出してもらいました。
私は昭和50年大学を卒業し、家業の麺業を継ぎました。現職を立ち上げるまでの7年間と、立ち上げてからの7年間は、私も麺業をやっていました。そのご不動産業に専念するために麺業を廃業したのですが、その際に道具一式を社会福祉法人竜雲学園へ買って貰い、母サチ子は60歳でしたがそれから10年間竜雲学園で働かせてもらいました。国内旅行や海外まで連れて行って貰っていました。竜雲学園が大好きな人でした。
母の指導や、後から入った龍満さんの指導が良かったのか、今でも麺づくりは法然寺の境内で脈々と続いています。正直私が作っていた頃より、数段進化して美味いうどんが出来ています。最近また新メニューが出来たと聞いています。この麺づくりも障害者の授産施設として、役に立っていると聞いています。
70~80歳までは元気でしたが、その後は入退院を繰り返すようになりました。最後は竜雲学園舜虹にお世話になりました。ある時の苑長さんは、麺業の弟子で、「こら◎◎◎◎」と呼びつけにしていました。晩年は自分の教え子に、世話になったわけです。因果応報、情けは人のためではないのですね
今年正月8日に、2度目の脳梗塞で入院しました。心臓からの血栓が飛ぶのは最初の脳梗塞の原因と言われ、2度目もあると言われていました。子宮癌をかかえリュウマチもあり、血液サラサラ剤のワッファリンも多用するわけにもいかず、2度目の脳梗塞で左脳はほとんど壊死していました。
覚悟はするように言われましたが、これで3度目でしたから今度もすり抜けるものと楽観視していました。私にとって母は、もちろん母親ですが、父親の役割も果たすスーパーレディでした。私は戦友という言葉を、母親にダブらせています。共に死線を越えて今日まで生きてきました。
相思相愛の仲も、一緒に暮らしたのは僅か13年程度です。夫に先立たれ、涙で暮らしたこの後が50年です。途中で再婚の芽もあったと聞きましたが、ことごとく私が摘み取ったのだそうです。今では悪いことをしたかと反省もしますが、それでも母の生涯は、いい人生だったと思います。しかしそれにも増して私の人生は、佳き両親に恵まれて、何と恵まれた人生か。
晩節を汚すことなく、目標の80歳まで、冗談好きの母の思い出を胸に生きていこうと決心して今日の小欄を書いています。日付もかわり、今日は母と2人になりました。明日は大勢の親戚縁者に囲まれて通夜は13日(水)18時から、葬儀告別式は14日(木)11時からいずれもベルモニー会館多肥で執り行います。