第3623回

村山富市講演会と明大校友会香川県支部総会

13時から夜まで、JRホテルクレメント高松に駐在の感じでした。15時からの第81代村山富市元首相の講演会には、私の予想に反してと言ったら失礼ですが、200人を超える聴衆を集めて、追加の椅子を急きょ並べるまでの好反響になりました。表舞台から消えた元総理に、何を求めて人は集まったのか。

面白い話しでした。決して奇天烈な話しではなくて、うけを狙った話でもありませんが、質実剛健誠心誠意の話しでした。明治大学のOBですから、「気骨のある学生」と明治卒業生を形容します。まず驚くのは大正13年3月3日生まれで、もう88歳ですがお元気です。学校法人明治大学顧問をされています。

確か11人兄弟のまん中ほどで、高等小学校の時に少し勉強したら先生に褒められて、それが少年の自信となりその後の人生を決めたと言うから実に興味深い話しです。東京の印刷会社に就職し、夜間部の明治大学に入学し、途中から昼間部に編入、卒業(1946)で郷里に呼ばれ、1948年大分県漁村青年同盟の書記長に就任しました。

漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動され、最初の選挙(1951)で落選しながら大分市議会議員(2期)に当選。大分県議会議員(3期)を経て、1972年12月第33回衆議院選挙でトップ当選し、衆議院議員を8期つとめました。

1955年自由党と民主党が合併して自由民主党の誕生、また社会党にあっても左派と右派が合併して日本社会党が誕生します。いわゆる55年体制の誕生です。この時以来、社会党は政権が取れるとは考えていず、憲法改悪阻止だけを党是としていたと語ります。このあたりも語り口は坦々としています。

1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名されたのです。ところがここで羽田氏が策を弄して6月25日進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診。

自身が総理候補に挙がった当初、村山さんは信じられない様子で「九州から鈍行列車に乗って東京にやってきたような人間が総理を勤められるわけがない」「どうしても社会党から首班をというなら自分よりも相応しい人物を挙げる」と歴史本の通り今日の壇上で喋っています。

6月29日形勢が定まらないまま首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足しました。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となったわけですが、片山内閣にしても村山内閣にしても、敵失でホームランを打ったようなもので、日本では左派政権は落ち着かないのかも知れません。

また、さきの55年自民党誕生以降から2010年6月に菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍になったことがない唯一の内閣総理大臣でありました。2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退したのです。

1994年7月に内閣総理大臣に就任されて、所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した党首でもあります。話を聞いていても、実にバランス感覚の優れた人です。8月15日、「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話」(通称村山談話)を閣議決定した当時の話しで、行ってみると本当にアジア諸国のみなさんに迷惑もかけたとわかります。アジアから孤立したら日本はただの島国ですと今でも信念です。

1995年1月、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落したのでしたが、現場が一番よく解決策を知っているのに、総理大臣が現場にいても、警備等で邪魔になるだけだったと当時を振り返っています。後藤田さんから、「人災にならないように」と電話を貰ったと暴露していました。

3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こりました。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請したのです。元総理は、日本の官僚は優秀だ。民主党の最大の失敗は、政治主導と言って官僚制度を壊し、排除したことにある。知恵を借りて、共に国をよくしていく気概が必要だとも言っています。私も全く同感です。

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