第2983回

志度ライオンズクラブ例会訪問

7月からの四国中央市キャビネット方針で、他クラブへの訪問が、新たなアクティビティーとして設けられて、傘下のクラブは8月から動き出しています。わが高松栗林LCも、会員会則委員会で計り、2人一組で参加するように行動を始めたところです。

そんな中、池田義幸第1副会長が、義父がこの6月まで所属していた志度LCへ是非お邪魔をしたいと言うことで、委員長の私がおつきあいをすることにしました。志度LCは、松岡豊RCを現在輩出しており、本日も高松空港LCの例会訪問中でした。

私個人としては確か3回目の訪問です。先の2回は、以前の事務所横の会議室でしたが、今回は小松真珠荘(メンバー経営)内の既存建物を改良した新事務所で、広くてとても綺麗な内装がなされています。

メンバーに設計士や内装・設備等の専門家がいるそうで、それぞれが専門分野で個人負担も辞さない価格で工事が進んだそうです。家賃も破格ですよと言われたのですが、市場価格10万円はするところ、3万円程度のようです。

われわれゲストの挨拶も、2人で30分弱程度話しましたが、その他特段の予定がないのか、我々に聞かせるためか会員スピーチがありました。これは心にしみ入るものでした。「原爆体験について」L庵原(いはら)稔の体験談でした。

庵原稔氏は、この春までの2期6年間、香川県農協の理事長をされていた(間違っていたら教えて下さい)この道54年間の農協人だそうです。その庵原さんが7歳の時の話に戻ります。

昭和20年8月6日朝7時過ぎに、最初の警戒警報が鳴りました。それが僅か10分程度でした。今思えばアメリ軍が、原爆投下前の市内写真を撮影していたのでしょうか。そして8時15分頃突然、「ピカドン」と爆撃を受けて、自分は爆風で飛ばされてしまいました。この時庵原さんは、爆心地から1.7キロ先にいたそうです。

暫くして太陽の光が見えてきました。慌てて自宅の長屋へ戻りましたが、長屋は全壊。石塀だけが残っていました。行く当てもなく、親父さんが勤めていた警察へ行ってみました。父親の消息はつかめません。黒板へ「山奥の田舎へ避難する」と書いて、その方向へ歩き始めました。

途中優しく声をかけてくれる女工さんに連れられ、歩いていると、雨になりました。真っ黒な雨でした。着ている白いシャツが、見る見るうちに黒く濡れていきました。随分歩きましたが、やっとその女工さんの実家へたどり着きました。

食事も出して下さいましたが、のどを通らず、夜具もしつらえて頂きましたが、頭の中が混乱していて、とても眠ることが出来ませんでした。そこに3日ほどお世話になっていたところ、長屋の近所の伯父さんが、ここまで探しに来てくれました。黒板のメモが役に立ちました。

電車とバスを乗り継いで、町まで帰ってきました。随分遠くまで避難していたことになります。父母は、信仰していた天理教の施設に収容されていました。顔は真っ黒で、外見では父母と見分けが出来ないほどでした。しかし声だけは、変わらずそれだと分かりました。

被爆から1週間後の12日、父親は他界しました。爆心地の近くで、道路工事の監督をしていた時に被爆したようです。この頃の自分は、雨に濡れた肌がただれて、水疱瘡になっていましたが、生命には異常はありませんでした。

9月20日まで広島で暮らしていました。毎日1食のご飯にありついていました。偶然も重なり、父親の実家のある志度へ電報を打ちました。確かな住所も分からず、それでも打った電報が届いたのか、迎えが来ました。母親と二人して、志度の児玉家へ帰りました。

しばらくして母親と連れ子養子で、新しい生活が始まりました。食べる物は豊富でしたが、愛情はかけらもない家庭でした。中学校へ入り、修学旅行で大阪を知りました。ここで働く決心をしました。義父にもこのことを伝えると、「いや市商(後の志度商高で現志度高校)へ行け」という義父の言葉に、「進学できるなら家業を継ぐためにも石田農業高校へ行きたい」とせがんで、石田農業高校へ進学しました。

2番で卒業する際に、「庵原家」の籍に入れるなら家業を継ぐが、入れないなら家を出て働くと条件闘争をして、ここではじめて児玉稔から庵原稔になり、卒業証書を書き直して貰いました。この時代は結婚をしても、子供の出産など、確かな確証があるまで入籍をしないのが当たり前でした。

ここではわが意を得たりと得意満面でしたが、嫁は親戚の者から、「あてがいブチ」のように押しつけられて、言われるままに結婚をして、今こうして80歳近くまで共白髪です。

昭和31年卒業と同時に農協へ誘われましたが、その時は断りました。その後農業をしていていろいろ考えるところがあり、35年に再度3名の採用枠があると聞いて、応募しました。当然4年前のことを言われましたが、「今農協が必要なのです」と答えて、採用されたそうです。その後は農協一筋54年間勤務して、今日があります。

「クラブには6年間例会欠席気味で、心機一転これから埋め合わせをします。」と結んでおられました。痛く感動した原爆体験でした。その後欠席予定の頼富英機会長が飛び込んでこられて、過日の食中毒の始末のため急遽愛媛県へ出向いていたことの説明と、諸般のお詫びをされていました。私は㈱中央社長夫人と縁戚つながりでもあり、ここ一番、一層応援をしなければと感じ入りました。

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