第2478回

地元紙四国新聞が創刊120周年の特集記事を発信中

地元香川の四国新聞が創刊120周年ということで、特集記事を発信しています。その中に「創刊秘話」というページがありました。四国新聞社は、「香川新報社」として1889(明治22)年4月10日に創刊号を発刊したと書かれています。

話しは高松藩までさかのぼります。水戸藩連枝の親藩として、幕末の混乱期を佐幕(佐は助けるという意味)で貫き通した高松藩は「朝敵」の烙印を押されることになります。

香川県の独立を導き、「分県の父」と言われる中野武営(なかのたけなか)が、「香川新報」の産みの親です。記事を読むと、「高松藩は維新の際に薩長に味方しなかったがために朝敵とみなされたが、薩長のみが正義の使徒であったろうか。否、今日の藩閥政治の暴挙を見れば、彼らは幕府専制時代に代って薩長専制を実現したにすぎない。われらは民権を主張し、藩閥の幣を取り除こうとしている」と演説しています。

「朝敵」の後遺症が未だ癒えず、当時は愛媛に併合されていた香川でした。分県運動が盛んになったのは愛媛に併合後の1882年頃で、そのほとんどが内務省の反対で難航する中、中野武営とそのいとこで後に香川新報の初代社長に就く小田知周(おだともちか)を中心とする運動のみが成功し、1888(明治21)年12月3日に廃藩置県から名東県(徳島)や愛媛県への併合を繰り返した末、「最後の置県」として悲願の分県独立を勝ち取ったのです。

分県独立を果たした中野武営は、高松生まれながら当時の愛媛県議会議員や同議長も務めています。そして次に目指したのは、地域の発展を支援し、「天下の公論」を醸成する舞台装置の創設、つまり香川新報の立ち上げでした。

発刊の辞には、「真実を伝え、真実を批判する公器としての新聞に使命を貫き通さん」と謳われていたそうです。立憲改進党という自らの政党の機関誌としての誕生ではあったが、目指したのは党利党略を超えた「天下の公論」を香川の地から発信することであったと言われています。

香川から巣立ち、近代日本の黎明期・激動の明治を駆け抜けた一人の英傑がいたのですね。中央にコネがあった中野武営をもってしても、香川県の独立まで新政府の誕生から21年もかかっていることにある種の違和感を憶えるし、また畏敬の念を強くします。

そう言えば大日本帝国憲法(旧憲法)も、1889(明治22)年2月11日発布で翌1890年11月29日の施行でした。この時代は恐ろしいほど時間がかかっていたのですね。良い記事を読むことが出来ました。

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