第8083回

佐野常民生誕200年~日本赤十字社を創った男の素顔~会報誌cross com-bookから

日本赤十字社会員誌クロスコムブックが届き、ページをめくってみる。興味深い記事がありました。拾ってみます。日本赤十字社の創設者・佐野常民は、幼少のころ佐賀(鍋島)藩医の養子になり、医者となる道を歩みます。頭脳明晰で努力家であった常民の勉強ぶりは、のちに長崎海軍伝習所(幕府の海軍士官養成所)でともに学んだ勝海舟が驚嘆するほどでした。

常民は蘭学や医学を学ぶために留学し、欧州で最先端の知識を吸収しました。そして1867年のパリ万博で、彼は赤十字の展示を見学し、戦時救護活動に感銘を受けました。赤十字運動は、国際的にはInternational Red Cross and Red Crescent Movement(国際赤十字・赤新月運動)と呼ばれ、世界192の国と地域で展開しています。

常民は赤十字の理念に感銘を受け、日本赤十字社の創設に尽力しました。1877年の西南戦争の折に、佐野常民と大給恒によって日本赤十字の前身である博愛社が設立されました。およそ1429人の、戦傷病者の救護活動を行いました。しかしそこで、戦場で命を救うための技術と資質を備えた人員を集める難しさを痛感し、救護員養成に乗り出します。

1886(明治19)年には、救護員養成のために病院を東京に設立。その後、日清・日露戦争、二度にわたる世界大戦、繰り返される自然災害等を経験する中で、養成された救護員たちは過酷な救護の現場において、自らの身の安全を守りながら懸命に傷ついた人々の命と尊厳を護りました。幕末から明治を駆け抜けた一人の日本人が「赤十字」と出会い、日本赤十字社の創設と発展に尽力しました。日本における赤十字運動の充実・拡大に生涯を捧げた佐野常民です。

後年、常民は「吾輩は知恵も才能も何もない老翁だが、幸いに今日の位置にまで進んできたのはただただ勉強の一つである」と語るようになりました。そんな常民のことを「断られてもけなされても少しも頓着なく、二度が五度でもやるところまでやる」「ついには反対者も屈服する」「佐野さんに見込まれたらモウ仕方がない」とみな、とまどいながらも半ばあきらめと憧憬を込めて評しました。理想を掲げ、努力し続ける常民に共感せずにはいられなかったのです。

危険をかえりみず戦地に足を運び、私財を投じ、人材の確保や物資調達に奔走し、なりふりかまわず、ときには泣きながら協力者を求めました。命が失われ、苦痛にあえぐ人々の惨状を見て見ぬふりができない、一人の人間としての常民の信念が浮かび上がってくるのです。日赤に遺されている記録からは、当時の日本に無かった革新的な人命救助の仕組みである赤十字を実現するには、「一人では何もできない」と考え、協力者を求めて行動し続けた姿が見えてきます。

佐野常民の業績は、日本赤十字社の創設と発展に大きく寄与し、人道的な精神を体現したものでした。日本の赤十字運動は、毎年一定の資金を納める会員に支えられ、2022年現在、ボランティア114万人、青少年赤十字メンバー349万人、赤十字救急員等42万人、年間献血者505万人などに支えられ展開しています。

日本赤十字社と日赤病院は、赤十字の理念に基づいて、人々の健康と福祉に貢献しています。日本赤十字社は全国に91の赤十字病院を運営しています。これらの病院は三次医療機関に指定されており、高度な医療を提供しています。私も日赤高松病院で、命を救われた一人であります。

電話で相談 メールで相談