婚姻50年は金婚式と言うらしい


私にも結婚式があり、1976(昭和51)年6月4日、相手は植原公子(当時も今も姉さん女房)、式場は当時高松栗林ライオンズクラブメンバーの勤務するオオクラホテル高松、媒酌人はあの樋端久利雄海軍大佐(樋端久利雄は、1943年(昭和18年)4月18日に、連合艦隊司令長官 山本五十六 に随行中、いわゆる「海軍甲事件」で搭乗機が撃墜され戦死しました。三本松高校には、顕彰コーナーがあります)の親戚筋の樋端康民(樋端病院医院長)ご夫妻でした。
樋端康民(樋端病院医院長)氏も、高松栗林ライオンズクラブメンバー、私は高松商1年入学時から3年間、クラブから奨学金を頂いておりました。大学在学中も、例会に呼ばれていました。そんな御縁から、結婚式はチャーターメンバーL大住省司に相談し、親戚が少なくて父親死亡の新郎側テ-ブルをクラブメンバーが十分補ってくれました。市内の名士が、名を連ねた結婚式が出来ました。東京から湯川正が、腕吊り(骨折)のまま司会をしてくれました。
大学を卒業して、寡婦の母親との約束を果たし、家業である松野製麺所で働き始めてまだ1年、現代なら将来が不安だと躊躇する年頃ですが、一人より二人が生きやすいだろうと考えて結婚しました。反対はありませんでしたし、義父・植原肇には恩義を感じていました。七年後に宅建業(不動産屋)を兼業してみないかと声かけられたとき、義父は「親孝行だと思って」と付け加えてくれ、心の負担を軽くしてくれました。
これが、松野不動産株式会社創業のきっかけです。結局大学卒業後7年目で不動産を立ち上げ、そこからさらに数年間、二足のわらじと言いますが両方をやりながら、決断の瞬間を待っておりました。1987(昭和62)年3月誠幸麺業廃業で機材一式を、社会福祉法人竜雲学園へ買い取ってもらい母は指導者としてその後10年間使ってもらい、最後は竜雲学園舜虹苑で看取られました。理事長・2代目第28世住職の細井俊明師には、本当に世話になりました。大恩が残っております。
あれから50年、昭和53年に長男賢士が、翌54年に次男誠之が誕生しました。もう一人女の子がほしくてかみさんに相談したのですが、自分も洋装店を経営していて時間も金策も大変だった。「外で作り」と言われて、きっぱり諦めました。社業も早めに長男に譲り、今では退職して私は『合同会社松野不動産』を第2創業し、今でも困りごと処理に多少なり役立つように精進して現役です。
あれから50年に、私は断腸の思いの記憶があります。父茂が、昭和37年8月に逝去しており、この50回忌を失念し父親には親不孝をしてしまいました。そのため結婚50年は、これまでさんざん苦労をかけた妻のリクエストを聞こうと、富山&金沢プチ旅行へ出かけました。かみさんは洋装店(ブティック)に必要な知識の習得に、東京のドレメで勉強しており、そのご学友が栗原佳子さんで、今回のプチ旅行も2回目の同行をお願いしました。
私にも小中高大とご学友がおりますが、今でも仲間に加えて貰っていますが、女の世界で18歳のまま今に至るというのはそう多くはないと思います。二人に岩手のもう一人を加えて、三人がかしましいのです。よく電話しています。秋には皇居へ三人で行くようです。私も『まさかの時があれば、晴れ着を買って皇居へ連れて行く』と結婚前に約束したのですが、晴れ着は約束を果たしましたが、皇居参内は新型コロナウィルスの流行に伴い出来ませんでした。
彼岸に渡る準備中の私ですが、心につかえていた50年というメモリアルを一つ、約束を果たしました。いろいろ面倒をかけた割には代償が小さいのですが、いまさらダイヤモンドより、希望するプレゼントがよかったと思っています。栗原ファミリーには、またまたご迷惑をお掛けしました。台風の影響でざぶ濡れになった栗原パパ、わがままなかみさんとつきあって下さる佳子さん、ありがとうございました。富山&金沢プチ旅行は、勝手ながら明日の小欄につづきます。