第27回八兵衛茶会―讃岐の水の恩人、西嶋八兵衛を称えてー



石州流讃岐清水派石州会の土居宗美先生の話だと、香東川文化や讃岐の水の恩人と言われた西嶋八兵衛の偉業など地域文化を次の世代に伝える活動を目的に、故綾田福雄氏の呼びかけで西嶋八兵衛顕彰会が設立され、その活動の一つとして八兵衛ゆかりの栗林公園において、八兵衛茶会が平成8年にはじまり新型コロナウィルスの流行に伴い3回中止にされたようです。
本来であれば30周年の記念茶会だと言うことになります。昨年はこの商工奨励館北館で大禹謨献茶が行われ、その後一行は掬月亭邸へ移動しての茶会でした。賛否両論あって今年はこの席での茶会で、私は助かりました。昨年は雨だったですか、椅子席の茶会は不謹慎かもしれませんが、ありがたい。
本日は献茶の前に、講演『史料に探る八兵衛の人物像』が香川地理学会副会長木下晴一氏からありました。最近は西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)のことは比較的多くの人に知られてきましたが、私は香川県が1888(明治21)年独立を勝ち取った際の立役者であり、現在玉藻公園入口に『香川県の父』として奉られている中野武営氏に似ていると思っています。
知られていない恩人は、いつの時代にもいるモノで、坂本龍馬も司馬遼太郎氏の小説『龍馬が行く』で全国的に知られることになったのと似ています。その西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)の15代子孫という方がいらっしゃいました。女性で、都内在住と言われていました。
そもそも西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)は伊勢・津幡の藤堂高虎の家臣で、高俊の母方の祖父である藤堂高虎が後見人となり、八兵衛らを讃岐へ派遣しました。八兵衛は数え26歳で、藩主交代に伴う仕事に当たったのです。このように生駒讃岐藩4代目当主高俊の補佐役として来讃し、池や川の整備を行い、治水利水事業に貢献されました。
特に高松城下においては、二股に分かれていた香東川の東の流れ、つまり城下への流れを止め、現在の流れに整備されました。この普請の前までは、栗林公園は川床だったようです。また商工奨励館中庭には、その普請事業の時に八兵衛自身が書いた『大禹謨(だいうぼ)』の碑が安置され、商工奨励館南館には西嶋八兵衛の功績をまとめた説明書きが肖像画と共に掲げられています。
私は、決してお茶人という風流気取りでもありませんが、石州会の土居宗美先生はじめ社中の皆さまや、取り巻きに大変世話になっています。義理を果たすために来ましたが、大いに楽しみました。ありがとうございます。